2013年7月10日水曜日

「双子の赤字」の拡大

いずれの円高劇の背景にも、日本の経常黒字の拡大や日米貿易不均衡が存在した。だから、「経常黒字が円高要因となる」という刷り込み現象が生じたのだ。この議論には、変動相場制の導入を促した市場至上主義の経済学者の大御所、ミルトンーフリードマン流のおまけがつく。実際の円相場の動きは、こうした理屈通りにはなっていないのに、「経常収支」説の人気が高いのは単なる米国に対するトラウマとばかり言い切れない面もある。むしろ、企業収益の黒字、赤字と経常収支の黒字、赤字を同一視し、「経常黒字=善」、「経常赤字=悪」とみる傾向が、日本人の間に存在するのではないか。そうした心理的傾向は、景気が拡大するたびに輸入が急増する結果、景気にブレーキを踏む必要がでてきた高度成長時代の「国際収支の天井」や、石油ショック後に昧わった「資源小国」の悲哀など、戦後日本経済のアキレス腱を忘れられない、国民的な記憶に根差すのかもし
れない。

「経常黒字=善」と見なす発想は、しばしば「円高=善」と見なす発想に結びつく。経済同友会代表幹事時代に『円か尊敬される日』(東洋経済新報社)という著書までものした速水優・元日銀総裁が円高論を繰り返したのは有名だ。デフレ下の円高がかえってデフレを悪化させてしまうことを、速水元総裁が知らなかったはずはない。政策論議というよりも、戦後経済にかかわったセントラルバンカーとしての信仰告白に近いものがあったのではないか。一、二年という単位では当てはまらない経常収支説「経常黒字だから円高になる」という「経常黒字」説は、少なくとも一年、二年という期間では当てはまらない。毎期、毎期の業績をあげ、三ヵ月ないし半年単位で輸出想定レートを決めなければいけない企業にとっては、「購買力平価」説ほどではないにせよ、「夏炉冬扇(夏のコタツと冬のウチワ)」になりかねない解説なのだ。

一例を挙げれば、レーガン大統領が就任して以降のドル相場。財政収支と経常収支という米国の「双子の赤字」が拡大したにもかかわらず、財政赤字に由来する米国の高金利に引き寄せられる形で、米国に資本が流入しドルは全面高となった。八五年のプラザ合意でドル高是正に合意するまで、スーパー・ドルの是正は容易ではなかった。実は、八〇年代前半の為替相場の流れを決めていたのは、「経常収支」ではなく、米国への投資資金の流入という「資本収支」だったのである。九〇年代後半にも、よく似たドル高現象が起きた。「強いドルは米国の国益」というロバートールービン米財務長官(当時)の発言に引き寄せられるように、ドル相場は反転上昇した。

そのカラクリも、米国の情報技術(IT)バブルに引き寄せられた、主に欧州からの株式投資であり、直接投資である。かくして、九〇年代後半の米国は経常赤字が拡大基調となったにもかかわらず、海外からの資本流入に支えられたドル高が続いた。これまた為替相場の流れを決めていたのは、「経常収支」ではなく、米国へのマネーの流入という「資本収支」の要因だったのである。こうして、向こう一、二年という経営者や投資家にとって死活的な時間軸での為替相場の方向を決める要素として、「資本収支」の重要性が浮かび上がってくる。八〇年代以降、モノやサービスの流れに比べて、マネーの流れが膨らみ、九〇年代以降ともなると、マネー優位に拍車がかかってきていることを考えれば、「資本収支」説の説得力は増すであろう。

実は、国際収支をみるうえで、「資本収支」と「経常収支」の表裏の関係にある。両者が「同時決定」となるか、「経常収支が先決」か、はたまた「資本収支が先決」か、といった神学論争はエコノミストたちに任せておこう。実務家の立場からは、次のようにいえるだろう。まず、資本の流れが無視できるうちは、「経常黒字が生じると、手取りの外貨を海外で運用する必要が生じるので、同額の資本流出(資本収支赤字)が生まれる」という議論が十分成り立つ。しかし、現在のように資本収支の動きが経常収支を凌駕し、スピードも速い時代には、資本収支が悪戯を始める。「ある国への資本の流人が当該国の景気を加熱させ、輸入を急増させることで、経常赤字を拡大させるとか、逆に資本の急速な流出が景気を冷やし、輸入を縮小させることで、経常収支を黒字化させるなど、資本収支の動きが経常収支の動きを左右するといった事例」(日本銀行国際収支統計研究会『入門国際収支』東洋経済新報社)が、続出するようになったのだ。