2014年6月12日木曜日

現実感覚の意味

抽象と経験との間を往復するといっても、この作業はそう簡単に行えるものではない。われわれの日常の判断でも、個々の事実だけを追い回して、広い一般的な視野を持つことができない場合もある。逆に抽象的なイデオロギーにしがみついて、全く現実感覚を失ってしまう場合もある。ここでは私の苦い経験を紹介することによって実例とすることにしよう。

一九五九年六月、私は雑誌「思想」に、「平和運動の頂点と底辺」という論文を書いた。それは「組織問題」の特集であった。この表題から想像していただけるように、その論文で私は平和運動の頂点、つまり政党や組合の指導部を、底辺つまり下部の運動の立場に立って、批判しようとしたのだった。あの頃、日本の平和運動に積極的に関係していた私は、運動の頂点の指導が生ぬるいと考えていた。底辺のエネルギーを、常に頂点がはぐらかすために、運動は混乱し失敗を重ねていると考えていた。そこで私は底辺の子不ルギーを示すつもりで、原稿の締切りギリギリまで駆けまわって、具体的な事例を取材した。地域の平和運動の例も調べた。職場における運動も調べた。基地反対運動の例もあげたし、その頃始まりかけていた、安保反対運動の実例もあげた。

しかし方法論の立場から言えば、あのとき私は無数の経験を組織する、理論的枠組のことを忘れていた。現在の私だったら社会学の「集合行動」の理論を、使ってみたかもしれない。あるいは大衆運動が官僚化するという、ミヘルスの寡頭制理論を、使用したかもしれない。あるいは一九六〇年前後の日本における政治的条件を踏まえた仮説を、作ることもできただろう。しかし一九五九年の時点にかえると、私は全く異なる観点から運動を見ていた。私は性急に自分の論文によって、現実を動かすことだけを考えていた。

考えてみれば運動の過程で私がつき合うようになったマルクス主義者の友人たちは、革命の必然性を説く理論に安住して、運動についての危機感など、あまり持っていなかったのかもしれない。それに対して一度もマルクス主義を信じたことのなかった私は、運動の失敗と混乱に腹を立てていたのだと思う。しかもマルクス主義に代わる、理論も方法も持ち合わせがなかったので、私はやたらに底辺を駆けずり回っていたのだと思う。言ってみればあれは、地面をはいずり回る経験主義の実例だったのだ。こうしてできた論文は、理論的枠組のないルポルタージュの、寄せ集めのようなものになった。