2014年5月3日土曜日

きれいごとのごまかし言葉

国民福祉税というのが、突然、飛び出してきた。連立与党を維持するためには、主義主張の違いはさしおいても同調しなければならない、と言って、細川首相のイエスマンみたいになっていたかつてのなんでも反対党の日本社会党が、久しぶりにバンダイしているようである。そうだとも、主義主張をさしおく政党などというものは、政党とは言えない。数でしかない。

しかし、今までは期待していたが、今回思わぬことを言ったのでがっかりした、というのではない。やっぱり、という感じである。ところが、細川首相の支持率はきわめて高いようだ。これはどういうことなのだろうか。福祉税などというのは、きれいごとでごまかしごとである。

私には、この、きれいごとが、わが国には多遡ぎるように思える。政治家だけではなく、目本人というのは、ごまかし逃げこむ習性の強い民族なのではあるまいか。ごまかしや逃げこみを、人から完全に払拭してしまうことはできないし、その必要もない、と私は思っている。嘘も方便であることが実生活にはあるだろうし、逃避も、人はそれから脱しきることのできない生き物なのだから、ある妥協や許容はあって当然と私は思っている。

人を見下したり差別したりする心を持っていない人でも、たとえばめくらという言葉は、マスコミでは使えない。せむしはどうなのだろうか。ユーゴーの名作に「ノートルダムのせむし男」というのがあるが、あれは、「ノートルダムの背骨不令の男」とかなんとか言わなければならないのだろうか。敗戦を終戦と片うぐらいのごまかしには、私は、そうは抵抗を感じないが、全滅を玉砕と言うのは、ちときれいごとに作り過ぎているように思える。侵略を進入と言わなくてもいい。

しかし、なんといってもひどいのは政治家のワンパターンのごまかしである。どうせだますなら派手にだまして、というが、政治家の言葉は、口本語を侮辱するばかりで、うんざりする。粛々と、だとか、燃焼し尽くして、だとか、十分にギロンをいただいて、だとか、あの口先だけで中味のない政治家の慣川語。人気抜群の細川首相は、いいマフラーは選べても、いい日本語は選べない人ではないかと、福祉税などと聞くと、思ってしまう。消費税は消費税と言いなさい。