2014年6月26日木曜日

雲南地区の戦い

先月の末、九州の大村と福岡へ行って来た。一九八一年(昭和五十六年)以来、私は、私の戦争長篇小説三部作と称して、龍兵団、勇兵団、菊兵団の、中国雲南省、北ビルマの戦いを扱った小説を書き、今年二月に連載を終えた。そのための最後の取材旅行に行って来た。連載が終わった後に取材旅行に行ったというのは、自分の書いたものが間違っていないかどうか確かめたかったからである。間違いがあれば、直して単行本にしなければならない。架空の部隊や架空の戦場を書いたのではない、どこで、どこの部隊が、どんな戦闘をしたか、戦史として読む読者にも応えなければならない。

その日、その時間、その場所での戦闘は、一つしかない。その部隊は決まっており、その隊の指揮官は明らかである。中隊長、人隊長、師団長、軍司令官、それぞれ、明らかである。一人しかいない明らかな人を架空の人物としては書けない。パロディにすれば、乃木大将であれ東条大将であれ、実物をどんな人物にでも変えられようが、私にパロディを書く気はない。

小説だから架空の人物を登場させたいが、架空ではない戦争を扱った小説では、無名の下級兵士でなければ、架空の人物は登場させられない。だからというより、私は下級兵士の立場で戦争を語りたいので、私の戦争小説の主人公は、いつもド級兵士である。私は、中国雲南省で全滅した騰越守備隊を扱ったものを「断作戦」と題して第一部とし、同じ雲南省の龍陵の攻防を書いた「龍陵会戦」を第二部としたが、「断作戦」と「龍陵会戦」とは、連載を始めて完結するまで、合わせて四年半ぐらいしかかかっていない。ところが、第三部の「フーコン戦記」を書き終えるのに、それから十三年半かかった。

私は、雲南地区の戦いには参加しているので、二部までは書きやすかったのであろう。北ビルマのフーコンには行っていないので、推理や創造で書かなければならない部分が、より多く、それで手間どったのだろう。本や写真を集め、生還者の手記を読み、話を聴いても、書くことに自信を失いがちで、だから、推理や想像の当否を確かめに、連載が終わってからも、話を聞きに行ったりするのである。

だからといって、雲南だけで戦争長篇を終えることはできなかった。ビルマの戦い、というと、インパールばかりが大きく報じられているが、昭和十九年、日本軍はそれだけの戦力もないのに、インパールの占領を夢想し、米英支連合軍は、インパールでは日本軍の自滅を予見し、雲南、フーコンをビルマ反攻の主戦場とした。日本軍には戦力もない上に、その連合軍の意図に対応する知恵もなかった。ところで、龍は第五十六師団、勇は第二師団、菊は第十八師団の防諜号である。防諜のためだといって旧軍隊には、そのような呼称がついていて、老人たちは懐かしさを感じながらも今も口にしている。たが、若者たちはこんな言葉を聞くと、むしろ、あの戦争が遠くなるのではないか。

2014年6月12日木曜日

現実感覚の意味

抽象と経験との間を往復するといっても、この作業はそう簡単に行えるものではない。われわれの日常の判断でも、個々の事実だけを追い回して、広い一般的な視野を持つことができない場合もある。逆に抽象的なイデオロギーにしがみついて、全く現実感覚を失ってしまう場合もある。ここでは私の苦い経験を紹介することによって実例とすることにしよう。

一九五九年六月、私は雑誌「思想」に、「平和運動の頂点と底辺」という論文を書いた。それは「組織問題」の特集であった。この表題から想像していただけるように、その論文で私は平和運動の頂点、つまり政党や組合の指導部を、底辺つまり下部の運動の立場に立って、批判しようとしたのだった。あの頃、日本の平和運動に積極的に関係していた私は、運動の頂点の指導が生ぬるいと考えていた。底辺のエネルギーを、常に頂点がはぐらかすために、運動は混乱し失敗を重ねていると考えていた。そこで私は底辺の子不ルギーを示すつもりで、原稿の締切りギリギリまで駆けまわって、具体的な事例を取材した。地域の平和運動の例も調べた。職場における運動も調べた。基地反対運動の例もあげたし、その頃始まりかけていた、安保反対運動の実例もあげた。

しかし方法論の立場から言えば、あのとき私は無数の経験を組織する、理論的枠組のことを忘れていた。現在の私だったら社会学の「集合行動」の理論を、使ってみたかもしれない。あるいは大衆運動が官僚化するという、ミヘルスの寡頭制理論を、使用したかもしれない。あるいは一九六〇年前後の日本における政治的条件を踏まえた仮説を、作ることもできただろう。しかし一九五九年の時点にかえると、私は全く異なる観点から運動を見ていた。私は性急に自分の論文によって、現実を動かすことだけを考えていた。

考えてみれば運動の過程で私がつき合うようになったマルクス主義者の友人たちは、革命の必然性を説く理論に安住して、運動についての危機感など、あまり持っていなかったのかもしれない。それに対して一度もマルクス主義を信じたことのなかった私は、運動の失敗と混乱に腹を立てていたのだと思う。しかもマルクス主義に代わる、理論も方法も持ち合わせがなかったので、私はやたらに底辺を駆けずり回っていたのだと思う。言ってみればあれは、地面をはいずり回る経験主義の実例だったのだ。こうしてできた論文は、理論的枠組のないルポルタージュの、寄せ集めのようなものになった。