2016年4月18日月曜日

ボヘミアンの生活信条

「ボヘミアン」とは自由奔放な生活者たちのことで、たとえばマルコム・カウリーは『亡命者帰る』のなかで、アメリカのボヘミアン文化の特徴を次のようにまとめている。「子供による救済」われわれはみな、特別な才能を持って生まれてきたのだが、それはしだいに社会によって押しつぶされてしまう。「自己表現という思想」人生の目的は、個人の内面にある個性をフルに表現することである。「官能礼賛の思想」肉体は寺院であり、裸体もセックスも不潔なものではない。「自由の思想」すべての法律、規則は破られるべきだ。「男女平等の思想」「心理的適応の思想」人々が不幸であるのは、抑圧され、環境に適応できないでいるからだ。「環境変更の思想」真実は、旅に出て、新しい活気にあふれた場所に移り住むことでみつけられる。

こうしたボヘミアンの生活信条は、アメリカでは、六〇年代の学生急進派へと受け継がれていった。六〇年代の若者たちは、親世代のWASPに対抗して、世俗的成功への欲望と物質主義を否定し、あるいは権威と秩序を破壊し、精神と知性を賛美した。そして八〇年代から九〇年代にかけて、彼らはその反逆的な精神を、さらに企業家精神へと活かすようになっていった。ボヘミアンは、絶え間ない変化、最大限の自由、若々しい情熱、急進的な実験、新しいものへの渇望といった徳目を重んじる。これらの徳目はいまや、アメリカでは新しいビジネスの理念となっている。たとえばトム・ピーターズのような経営コンサルタントのカリスマ(名著『エクセレント・カンパニー』の著者)は、六〇年代の対抗文化運動の意義を、IT革命の理念に活かすことに成功した代表的人物であろう。ボヘミアンから出発した「ボボズ」は、およそ次のようなライフスタイルを築きつつある。

2016年3月17日木曜日

日記から読み取れること

それでも、素材となった本物の裁判では約三年かかった審理を一目に集中してやったのですから、陪審裁判にすれば、やはり裁判は短くなるわけです。その模擬裁判は参加した弁護士にとっても初めての試みであったことから、いろいろと考えなければならない技術的な問題点や教訓もありましたが、ただ、陪審制そのものが導入する価値の高い制度であることは再確認できました。

特に印象的だったのは、思考がパターン化されがちな法律実務家に比べて、陪審員は実に深く、かつ多面的に考えていたことでした。「陪審員は感情に流されるのではないか」「より巧みな弁論に引きずられるのではないか」といった危惧がないわけではありません。

また、欧米人のように本当に活発な議論ができるのかも心配でした。しかし、実際に試してみると、それは全くの杞憂でした。後になってふりかえってみると、その事件には、法律専門家の多くがパターン化した思考に陥りやすい問題点がありました。

具体的には「ある老人が病院の窓から落下して死亡した。これは自殺か事故か」という点が問題でした。証拠にはいろいろありましたが、その中に、死亡した老人が日記の中で「生きる意志」を書いていました。プロの思考パターンからしますと、この書証にかなり引っ張られ、自殺はあり得ないと簡単に結論を出してしまいがちです。

ところが、十二人の模擬陪審員はこの問題をかなり深くっっこんで考えて、日記の記載だけでなく法律家があまり考えないところまで幅広く目を配って、六対六に分かれて議論がまとまらないといった格好になりました。ここには、普通の日本の市民も決して付和雷同ではなく、多面的にしっかりと考えられることが示されています。

2016年2月17日水曜日

連立政権の時代

一九九三年当時、自民党の長期支配が続くなか、政治改革を求める勢力が期待した政党は、政権交替可能な大政党であった。小選挙区比例代表並立制に基づく、二大政党制である。しかし九三年の自民党の分裂は、結果的に野党の結集を促すには至らなかった。自民党が社会党と連立を組むという離れ業で政権に復帰した後も、野党の結集や、新党の結成は試みられたが、自民党の対抗勢力にまでは育だなかった。結局、細川内閣以降の日本の政権は、自民党も含めどの政党も単独では内閣を組織できず、結局、連立政権を余儀なくされてきたのだった。

今後、自民党が衆参両院で過半数を制することができれば、再び、単独で内閣を組織できることになるが、他方、小選挙区制度は、政権党が失政を犯せば、大きく敗北を喫する場合もあり、政権交替の可能性は決して少なくはない。そのことに加え、民意の多様化が進み、対抗勢力である野党の統一が容易ではないことを考えれば、どの政党も単独で政権を担えない状況、つまり連立政権の常態化は、今後も十分にあり得るであろう。

ちなみに、ここまで「連立政権、連立内閣」という言葉について、特に定義せずに議論を進めてきたが、厳密には、単独の政党だけで過半数の議席を確保できずに、他の政党と協力して政権を獲得した場合を連合政権といい、連合政権のうち、二つ以上の政党が政策協定などを結び内閣を組織する場合を連立政権、連立内閣という。

したがって、九三年八月以降は、第二次橋本内閣の前半における社民党、さきがけの閣外協力のケースのみが、「連合政権だが連立政権ではない」ということになる。また、政策協定は結ばずに、政権党が野党に呼びかけて政策ごとに協力しあう場合もあり、これを部分連合、政策連合などと呼ぶ。九九年通常国会までの自自(公)政権の場合、自民、自由は連立内閣であり、公明党は部分連合であった。総じてこの六年間は、連立政権の時代と呼ぶことができるであろう。

2016年1月20日水曜日

予想される風圧

確かに、冷戦下の国連では、常任理事国は不参加という慣行が守られ、必ずしも国連平和維持活動への参加が条件とはされていなかった。しかし、第一に、過去においては五大国がいずれも核保有国、武器輸出国であり、軍事力を背景に強い発言力を維持してきたという現実は見逃せない。

第二に、冷戦後の国連平和維持活動は、五大国不参加という慣行にとらわれず、とりわけ憲章第七章のもとで派遣された平和実施部隊においてはソマリアの米軍、旧ユーゴの英国、フランス軍など、常任理事国の兵力が重要な役割を担っていることにも注意を向ける必要があるだろう。

九四年一月に米議会上院は、軍事行動を含め、国連平和維持活動に日本とドイツが参加できるようになるまで、両国の常任理事国入りは認めるべきではない、という付帯決議を全会一致で可決した。これは政府を拘束するものではなく、米国の意向を左右するものではないが、こうした声が議会にあるという事実を、無視することはできないだろう。

決議では、「両国では現在、常任理事国の責任を完全に果たすことは禁じられているとの見方が大勢で、完全参加の能力を持つために必要な変革には乗り気ではない」として、結果的には制限の撤廃を促す内容になっている。これは、米軍などが危険にさらされるPKOの派遣決定に、制約のある国が参加するのはおかしい、という「平等論」とも言うべき意見だ。

もちろん、PKOは加盟国の自発性において、その能力や諸条件に応じて参加する活動だから、常任理事国の一員として派遣を決定しても、参加は義務としては生じない。だが、無条件で常任理事国入りを求めれば、その代償として、要員についても応分の負担を求める感情的、心理的な圧力は高まらざるを得ないだろう。

2015年12月17日木曜日

欧米との違いとは・・・

あなたも「結果オーライ」となるかどうかは分かりません。法律には様々な落とし穴もあります。実際は、すんなりと思い通りに行くには相当運が良くなければいけない、というのが現実です。

「裁判で強制されない法律」を守るわけがないのに、「本当に日本の裁判はそこまで不安なものなのか?」と疑問に思い、あるいは不安を抱いた方もおられるかもしれません。

「そんなにうまくいかないことがあるのは、弁護士の腕が悪いのでは?」などと思う人もいるかもしれません。しかし、実際の法律の仕組みや、日本の裁判実務がどのように動いているかを冷静に眺めると、いろいろと問題があっても仕方がないようになっています。

裁判にそれはどの問題がなければ、みんなもう少し裁判をうまく利用するはずですし、それによって、日本の社会でも法律がちゃんと守られて、人々加法的なモラルを尊重するような雰囲気になっているはずです。また、「法律トラブルに巻き込まれても、必ずうまく正義に沿って解決できるものだ」という安心感がしっかりと社会にあるはずです。

しかし、現実にはそうなっていない。それが巷の実感です。欧米と比べても問題です。そのことは、裁判の役割を日本と欧米で比較してみれば、はっきりと感じられます。

2015年11月18日水曜日

ニュートンの古典力学の世界に住む日本人

トーマス・マンはドイツ敗北直後でありながら、ドイツ人の精神的伝統、ことにそのロマン主義の良さ、美しさがヒトラーによって堕落させられてしまったのだ、とそのアイデンティティを懸命に擁護しているのである。こうした「部分否定」が可能なのは「契約一再契約の法則」によるのである。日本人の国民性が「多重人格」ないし「無節操」に映ったのも、この「作用・反作用の法則」のためである。要するに、日本人はニュートンの古典力学の世界に住んでいるのだ。

実際、日本文明には「慣性の法則」も「作用・反作用の法則」も存在している。むろん、「運動方程式」も成り立つ。「JF(日本人力)イコールM・E」がそれだ。日本人は情緒的な一体感とそれを共有する集団の規模が大きくなるほど力を発揮するのである。なんと、日本文明では比喩ではあるがニュートンの古典力学の基礎となる法則がすべて成り立ってしまったではないか。古典力学は決定論の世界だから、日本人の行動はすぐ読めるのである。これに対して西欧は、不確定性原理か支配する量子力学の世界である。

だから、常に確率という不確定な要素を考慮しながら行動するわけだ。さまざまなシミュレーションに基づき、一番確率の高そうなことから万が一の危機管理まで、しっかり戦略を練るのが西欧文明の生理なのである。

2015年10月17日土曜日

コングロマリット経営を批判する

企業はまずドックの事業を捨てます。そしてキャッシュ・カウで得たキャッシューフローを問題児につぎ込み、スターになるよう注力します。スターは市場が成熟していくにつれ、さほどキャッシューフローを投資に振り向ける必要性も少なくなっていきます。時間とともにキャッシューカウヘと変化していくのです。

実はこうしたマトリックスの考え方は、もはや米国では通用しにくくなっています。アメリカでは、コングロマリットは株式市場でディスカウントされ、ピュアプレイが好まれるように変わってきているのです。「事業を四つのドメインに分けて、Aで儲けキャッシューフローをBに投入する」。そんなことは「企業という舞台」の上でやるべきではありません。株式市場という「市場の場」で投資家が好きずきに行なったほうが、はるかに効率的なのです。

こうした理論の変遷もあって、日本の大企業経営者が海外の機関投資家に会いますと、「必ず」と言っていいほど、コングロマリット経営を批判されてしまいます。これに対して日本の経営者がコングロマリット経営を擁護するのに使うロジックがあります。一つは、シナジー(相乗効果)あるいはヴァリュー・チェーン(Value Chain)といった考え方です。

先の例で言えば、半導体とパソコンの両事業の間にはシナジーが認められるというものです。もう少し分かりやすく説明しますと、たとえばパソコンメーカーにとっては半導体事業を持つことで半導体の安定供給が得られます。こういった「目に見えぬ利点」が認められるから一つの傘の下で両事業を併せ持つことにはそれなりの意味があるとする説明です。一石の事業の価値(ヴァリュ上があたかも鎖(チェーン)で結ばれているがごとく密接にからみあっているとの説明です。

残念ながら海外の機関投資家にはこうした説明は、多くの場合、単なる言い訳としか受け取ってもらえません。パソコンメーカーが半導体を使う場合、多くの半導体メーカーに競争させて、できるだけ品質の高いものを低価格で仕入れたほうがよいに決まっているからです。自社ブランドに固執する必要はないのです。

2015年9月17日木曜日

日本の景気低迷の原因

いろいろなウェブもグーグルで簡単に検索でき、グーグル得意の地図検索もパソコン上で行うときと同じような素早さで反応してくれる。日本の携帯電話の複雑な機能を使いこなしている人たちがどう感じるかはわからないが、パソコンで仕事をしている人間にとっては、グーグル携帯はパソコンの延長上の非常に便利な機器である。グーグルは世界の多くの携帯にこのアンドロイドを搭載することを狙っているのだろう。世界のパソコンの多くがマイクロソフト社のウィンドウズで動いているように、世界の多くの携帯電話がアンドロイドで動くようになるのだろうか。より多くの人がグーグル携帯を利用するほど、ソフトの開発コストを下げ、機能をアップさせることができる。規模の経済性が働いているのだ。

より多くの人がグーグル携帯を利用すれば、それだけ多くの人が携帯電話を通じてグーグルの検索やGメールなどを利用するようになる。ネットワークが広がりを持つほど、そのネットワークの持つパワーが拡大するというネットワークの外部性が強く働くのだ。独自のサービスと機能を志向してきた日本の携帯電話メーカーや通信会社にとってこの動きは脅威であるとともに、チャンスでもある。日本独自のOSや機能に強くこだわり、世界標準の流れとまともに競合する道を選べば、かつて日本のパソコンのOSが敗退していった道をまたたどることになる。

しかし、携帯電話のOSの流れをうまくつかんで、その上にどのような付加価値を乗せていくのか考えれば、そこの市場をさらに拡大させていく余地が生まれるはずだ。特に通信会社にとっては、より多くの通信をしてもらえるなら、アンドロイドであろうと日本独自のソフトであろうと同じだけ通信料を稼ぐことができるはずだ。Iモードという独自のサービスで日本国内市場の大きなシェアを占めているNTTドコモが、あえてグーグル携帯を導入したのは興味深い。今後、ドコモがグーグル携帯でどのような展開をするのか注目したい。

ところで、グーグルと違って機器からOSまで独自の路線をとっているアップルの「IPhone」は、パソコンで独自の世界を築いている同社のマックに似ている面が多い。この動きにも注目したい。国債バブルの問題を提起する書籍や記事が増えている。日本の政府債務は増える一方であるのに、その債務証書である国債の価格が史上最高値(国債利回りは史上最低水準)であるからだ。もし国債価格が暴落したらどうなるだろうか。そうした不安を感じている人も多いはずだ。日本の財政問題は、財政を運営する主体である政府の問題としてだけとらえるべきではない。長引くデフレと景気低迷、家計や企業の防衛的姿勢、金融機関の行動原理など、日本経済全体の動きとしてとらえる必要がある。

この20年、家計(消費者)は支出を抑えてきた。日本の家計部門が所有している金融資産の額は世界の中でも突出した存在で、年間可処分所得のおおよそ4倍という高い水準である(米国や英国は3倍、ドイツやフランスは2倍である)。将来の年金や医療や雇用が不安で支出を抑えてきた。だから、日本の内需はふるわず、景気も低迷している。デフレも長期化の様相を呈している。企業部門も戦後最大規模という手元資金を保有している。積極的に投資に資金を回さず、ひたすら防御的に手元に資金を蓄えている。だから投資需要が伸びず、内需が伸びない。これも日本の景気低迷の原因である。

2015年8月22日土曜日

ベビーホテル

だが一方では、ビジネスである以上都合のいい情報しか出さない可能性もある。少子化による競争激化で経費や人件費の削減に躍起になる経営者もいるだろうし、「安い保育料」や「長時間保育」を求める母親のニーズを優先するあまり、子どもの成育環境が悪化するケースも見受けられる。実際、テレビで「宣伝」されるような理想的保育所の陰で、現実には多くの無認可駅型保育所が存在するのだ。私か取材した駅型保育所のいくつかは、繁華街の雑居ビルや駅前マンションの一室だった。日当たりの悪い部屋にベビーベッドがぎゅうぎゅう詰めで並び、オムツやおもちゃが壁際のラックに乱雑に積まれている。こうした小規模施設には。専用の調理設備のない場合が多いため、給食サービスが利用される。

だが、業者から運ばれてきた給食は温め直す手間がかかるし、離乳期、幼児期など発達段階に応じた食事を提供するにはそれなりの経費も必要になる。これを負担できる施設なら問題はないかもしれないが、なかには「給食は人手とお金がかかる」との理由で、イッスタントベビーフードや仕出し弁当を食べさせるケースもあるのだ。延長保育で夜まで過ごす子どもは、昼も夜も一日二食を仕出し弁当で済ますことになる。二〇〇四年五月二百付読売新聞では無認可保育施設の悲惨な実態が次のように報告されている。

〈夜七時以降も子供を預かる東京都内の無認可保育施設「ベビーホテル」のうち半数近い百以上の施設が、都の指導要綱で定めた基準に二年連続で違反していたことが分かった。保育士が足りない、子供を詰め込みすぎなどで、前年度の指導が″無視”されたケースも目立った。(中略)都が再犯の理由をただしても、「補助金がないため、余裕がない」との答えが返ってくるばかり。雑居ビルなどで営業する形態も多く、都職員がひどい環境に驚くこともある。

ある施設は、保育スペースで犬を放し飼いにしていた。六畳程度の部屋に十人の幼児を詰め込んでいた施設では、一、二歳児に市販の弁当の空揚げや煮物を細かく刻んで与えていた。おまる、哺乳瓶、食器を同じ流し台で洗っていた施設もあった〉「半数近い施設が、二年連続で違反」なわけだから、こうしたケースは必ずしも例外とは言えないだろう。それにしても赤ちやんやヨチヨチ歩きの幼児がいる部屋で犬を放し飼いとは劣悪すぎる。

女性が社会進出することのすばらしさや、仕事と育児を両立するかっこよさを理想的と持ち上げ、そうした女性の生き方を支援することが行政の責務と言われる。しかし、育児される側、つまり子どもたちは、本来、おとな以上に「支援」を必要とする存在なのだ。仕事や経済的問題を抱える女性への支援が必要なことは当然だが、おとなの事情や都合ばかり優先させ、親のニーズがかなえられることだけを「すばらしい」と推進していっていいのだろうか。

2015年7月18日土曜日

「国内基盤」のなさ

こういう重大な外交的結果をもたらすことが十分予想される問題について、外務省が事前に相談も受けないという事実を知ったときの無力感、しかも、その後始末の苦労は押し付けられるやりきれなさ、そしてあえていえば、そういう外務省に対する扱いに対しても毅然とした態度がとれない幹部に対する不満と若い事務官たちの憤り、いま思い出しても心の中がどす黒く渦巻く思いがする。

さらに深刻なことは、以下に述べる他の問題を合わせ考えていくと、この地盤沈下傾向に歯止めをかける見込みもあまりないことだ。若くて元気のある外交官ほど、このままでいいのかとか、外務省が今のままだったら転身するしかないとか考え込む者が多くなっていると聞く。

外交官の仕事をやりにくくする大きな原因の一つに、「国内基盤がない」という問題がある。前にも述べたように、今日の外交問題のほとんどは、外務省の一存で決めることができない性質のものばかりである。つまり、外務省が外国と折衝し、交渉する前に、ほとんどの問題について国内的に権限をもっている官庁(所管官亡と方針を協議し、決定するという手続きを踏まなければならない。そして、外国と折衝した結果が当初の方針と合わなければ、再び国内的な協議、決定という手順を踏むことになっている。

仮に外務省がこういう「根回し」をしないで独断専行したら、所管官庁はそっぽを向いてしまうだろう。その場はなんとか収められるとしても、所管官庁は、「このツケは必ず払わさせる」といったやくざまがいの発想を胸の中に固くしまい込むだろう。だから外務省としては、自民党実力者の積極的支持や政府首脳の圧力でもない限り、そのような冒険はおいそれとはできない。

2015年6月17日水曜日

巨人々を震揺させた対抗馬

ちいさな穴を未然に防ぐのが、組織部員である。これは各課に二名いるのだが、職場委員や経協委員とおなじように、職場長の任命制である。誰が組織部貝か、一般の組合員には不明である。だから、組織部員は、職場では、「特高」とも「ゲ・ぺ・ウ」ともいわれたりする。研修会でみっちり労使協調の思想教育を受け、組合の活動で忠誠心を発揮し、やがて「総括」とか「係長」のポストについたものがなっているようだ。

職制と役員の二重人格で、次期の組合役員を選んだり、日産機動隊とよばれるハネ上がり分子を指揮したりする。部課長といえども、組織部員には一目も二目もおく。にらまれたら、彼の部下の統率にひびく。特高といわれるのは、そのためである。もちろん、仕事は、労働者の日常の監視と評定である。日産では、三日以上の休暇をとるときは、課長と職場長(組合役員)に「行動計画案」を提出する。誰と、いつからいつまでどこへ、なんの目的でいくか、を記入する。それが慣習となっているので、新婚旅行へ出発する労働者に、「何の目的でいくのか」ときいてしまった、との笑い話もある。

日産労組の来年の活動方針の柱は、P3運動である。これは、一九七七年から、生産性向上運動のキメ手として、日産共栄圏ぐるみですすめられているものだが、それを、さらに国レベルですすめていこうとするところに特徴がある。毎年一〇パーセントの生産性向上、毎年二〇パーセントの不良削減、「運動方針」には、こう書かれている。この運動は、産業企業の健全な発展を通じて、労働者福祉の向上・国民福祉の向上を求めていくものであり、三つのPは次のような意味をもっている。

①働きがい、生きがいの追求
P3運動は、自動車労連のすべての仲間が協力し、労働者参加による生産性向上運動を展開し、労働者および国民福祉の向上につなげていこうとするものであり、働きがい、生きがいを追求する活動の一環として推進する。

②労使協議による推進
生産性の向上には、労使関係の近代化、経営の民主化、とくに労働者の参加、労使の協議、協力が不可欠である。したがって、この運動は企画、実施、評価のあらゆる段階で、また労連段階、組合段階、職場段階で、労使が十分な協議を行いながら推進する。

③産業段階、国の段階等における発言力の強化
自動車産業の動向は、産業段階における経営者の政策や、国や地方自治体の産業政策によって大きな影響を受ける。したがって、産業、国、地方自治体等の政策に対するわれわれの発言力、影響力を強化していく。

賃上げの反対意見を暴力で封じようとしたリンチ事件にたいして、東さんたちは猛然と反撃を開始した。ビラやパンフをつくって地域の組合へ訴えて共闘態勢をつくり、集会をひらき、日産本社へ押しかけ、告訴し、記者会見した。これらが新聞で報道され、おりからの小型車国際戦争激化の情勢もあって、海外でも大きく報じられることになった。合理化工場の秘密の暴露である。それに力をえた東さんと嘉山さんは役員選挙に立候補した。追撃である。対立候補の出現は、日産労組史上はじめてのことだった。というのも、立候補者には「拡大職場委員会」の推せんが必要とされ、反対派が推せんされることはないから、事実上、対立候補者はあらわれない仕組みである。

2015年5月22日金曜日

子供が売り買いされる国の強烈な「格差」

結局、中国の「人権感覚」が数百年昔のまま、という認識を新たにすることでしかないのだが、その犠牲となるのが子供や女性、少数民族といった最も弱い人々であることもまたやり切れないことである。知人の在日中国人はいった。「貧乏で食べるのが精一杯な人間に、人権なんか関係ないんですよ。欧米は、人権という言葉を、中国を攻める口実にしているだけ」人権とは、貧しき者にも富める者にも等しく保障されるべきものというのが現代の世界の常識である。しかも、自身は、日本という「人権大事」の国にいながら、祖国の「貧乏人には人権不要」との言を、「知識人」を自認するその人は平然と口にした。世界最貧の地は、遠いアフリカにだけあるのではない。私たちの隣にある中国は、北京五輪を開催し終えた今となっても、この世で最も貧しい国のひとつだ。とくに、物質面での豊かさの・みを貪欲に追求し、支配層が富を独占し続けるためには手段を選ばないという考えが現代でもまかり通るという点で、「最も貧しい」国だといえるのである。

そうした貧しさと一見対照的に、強烈な「豊かさ」を見せつけるショーケースのような町であり、「美食の都」と称される広州。この町は、私にとっては複雑な記憶を甦らせる町でもある。早朝から夜中まで楽しめる飲茶や珍しい料理の数々は時折恋しくもあるが、あの高級ホテルでの子供たちのことを思い出すと、どうしても苦みを感じてしまうのである。子供が売り買いされる国の強烈な「格差」。中国には「裏口入学」という感覚がない? 地獄の沙汰も金次第の中国では当然、義務教育も「金次第」である。中国政府は、1986年、「義務教育法(小・中学校9年制の学費免除の義務教育)」を施行した。ところが、この政策は財源の裏づけに欠け、農村部の多くの学校が、学費以外のさまざまな名目の雑費を保護者から徴収してきた。

必要な雑費だけならまだしも、好条件の学校への就学と引き換えに、地方役人や学校関係者が親から賄賂を受け取るという中国の伝統的な習慣もまかり通っている。農村家庭にとっては重い負担となり、子供を中途退学に追いやる原因となっている。2004年の調査では、農村の小学生の中途退学数は10人に約2・5人、中学生は約4人だという。この問題は、経済発展が遅れてきた内陸部、チベットやウイグルといった少数民族の多く住む西部地区でより顕著である。一方で、都市部では金持ちの子弟専用の「貴族学校」が続々とでき、大学進学率も年々高まっている。中国では高校、大学の進学において「裏口入学」が公然であるらしく、何人かの大学生から、「あなたは何点足りないから、いくら払えば入れる」と知らされ、親が工面した金で「ゲタを履いて」入学したと堂々と口にしか。このことについて、中国人と結婚している日本女性と話をした。

「ほかの同級生への後ろめたさもあるし、日本人の感覚だと、やっぱり自分が優秀と思われたいから、お金で学校に入学したことは何かあっても黙っているよね?」こう聞くと、彼女は苦笑しながら解説してくれた。「中国では『金で問題解決ができる』ことは悪いことじゃない。むしろ、金が払えた=力があるわけだからいいことなの。後ろめたさ? 何それ? つてところでしよ」近年の中国は政府の奨励もあって大学新設ラッシュである。とはいっても、大学経営が必ずしも「おいしい商売」となっているわけではないようだ。多くの学校が外国人留学生の受け入れに熱心なうえ、名門大学までがホテル経営などのサイドビジネスに乗り出している。中国政府が大学新設を奨励してきたのには、教育レベルの向上という目的もあるが、口さがない友人は別の理由が大きいのだろうという。

「膨大な人数の若者が、10代で社会に出ても仕事はない。政府も与えてやれない。だから、一種の猶予期間をもたせるために大学進学を奨励してきたのよ」こうなると、貧しい親たちでも、たとえ借金を重ねたとしても「子供には自分だちと違う将来を」と考え、上級学校への進学に一緩の望みを託すのは当然の成り行きである。しかし、そうしてまで高校、大学へ進み、卒業できたとしても、それは所詮「猶予期間」が終了しただけのこと。大学新卒者の就職難という厳しい現実が待ち受けている。近年は新卒者の40%近くが職に就けないという数字も伝えられている。これに、80ページで紹介した、「1日1ドル以下(月3000円以下)の暮らし」という国際的な水準で見た貧困層が、中国政府の関係者の推定でも「2億人を超える」という状況を考え合わせてみてほしい。10%前後の経済成長率が何年も続いているのに、なぜ、新卒者に職がないのか? ここで思い出さなければいけないのが、「13億人」の人口問題である。

2015年4月17日金曜日

リアル書店とネット書店のちがい

たとえば、本書のような新書本の価格は、原則としてページ数に応じて決められます。少しでもいい内容の本にしようと、出版社も著者も努力するのに、内容に応じた価格設定にしないのです。トマトや牛肉の価格を決めるのに、味などの品質をまったく無視し、グラム数だけで価格を決めるようなやり方を、日本の出版社は平気でやっています。品質に対しておカネを請求しないやり方は。ネオン街の高級クラブに似た感じもします。しかし。高級クラブの経営者や従業員は、顧客満足度に応じたおカネをもらうために、他の価格設定をくふうしています。紙の本の価格には、そういった価格戦略がありません。日本では、紙の本を売るときに、顧客のことをさほど考えずに価格を設定し、原則としてその価格で売り続けます。

なお、単行本として数年販売したあと、文庫本にして安く売ることはよくあり。これは価格差別を意図していると指摘する経済学者もいます。たしかに。価格差別としての効果はあります。しかしそれは、戦略的に練られたものではないと感じます。映画のDVDソフトと比べると、よくわかります。映画DVDであれば、内容はほぼ同じものが、最初に高く売り出され、しばらくして廉価版として安く売られたりします。ただし、商品を廉価版に移行するのに、高いコストをかけたりはしません。他方、紙の本の場合には、文庫化するときに版を組み直したりしますから、同じ原稿を利用して別の商品をつくるような感じです。そうなると、価格差別としては効率が悪いといえます。

また、同じ著者で同じ内容の本なのに、単行本と文庫本が異なる出版社から発行されることもあり。個々の出版社からみれば価格差別になりません。著者にとっては価格差別として機能するかもしれませんが、そもそも日本では。紙の本の価格は原則として出版社が決めます。そして日本の出版社は。多様に差別化した商品を販売しているのに、価格戦略をほとんど意識していないという特殊事情があります。ケータイ小説なども電子書籍にふくまれますから、広い意味での電子書籍は。21世紀に入ったころから日本でも普及してきたといえます。ただ紙の本で新刊を出すときに、同じ内容の電子書籍も出すといったかたちでの、本格的な電子書籍への取り組みを、日本の出版業界が競い始めたのは、2010年のIPad登場がきっかけでした。

2015年3月18日水曜日

何をどう改革するか

高齢社会を迎えるにあたって、まず必要なことはきちんとした形で介護保険を整備することではないだろうか。介護保険がなぜ必要なのか、という点についてはいくっかの側面がある。いちばん大きな理由は、かんたんに述べるなら、現在でもすでに六五歳以上のお年寄りは一七〇〇万人であり、そのうち常時介護や医療を必要とする人は約二〇〇万人いるからである。しかも、この数がどんどんふえているのが、大きな社会問題である。

日本が高齢化のピークを迎えるといわれている二〇二五年には、約五二〇万人のお年寄りが介護を必要とするようになると推定されている。さて、人間はどのような経過をたどって老化していくのだろうか。アメリカの例をひくと、アメリカでは六〇歳から七五歳までの老人をヤングーオールドと呼ぶ。この年代の人々は仕事があれば仕事をすることもできるし、介護が必要になる人は比較的少ない。それにたいして七五歳から九〇歳まではオールドーオールドと呼ばれ、介護を必要とする人がたくさん出てくる。

割合については、いろいろなデータがあるが、年齢を重れれば重ねるほど、介護が必要になる人の割合がふえる。これが、アメリカに限らず、ごく一般的な人間の老化の過程であると考えて差し支えないだろう。今まで介護がさほど問題にならなかったのは、かつては介護が必要になる前に、私たちの先輩は病気で亡くなっていたからである。たとえば、戦前に恩給と呼ばれた共済年金を受け取った人々は、平均すると二年半しか年金をもらっていない。つまり、定年退職後、平均的には二年半で亡くなったことになる。

人生五〇年時代には起こらなかった問題が現在の高齢社会にはいろいろ生まれてくる。それが介護や医療の問題であり、高齢社会の背負わなげればならない課題でもある。もちろん老人は誰も彼もが介護を必要とするわけではなく、六五歳以上の老人のうち介護を必要とするのは現在は約七パーセントだ。ただし、もっと上のオールドーオールドの世代に限ってみれば、割合はぐんと高くなる。

では、介護の問題をどうとらえるか、という点について述べてみよう。まず、高齢化社会にあっては、ある一定以上の割合で介護を必要とする人々が出てくるのは当然である。だから、そういった高齢者の存在を前提として話を進めるべきだ。まず、そのような人々を救える制度を作らなくてはならない。

2015年2月18日水曜日

賢い格安チケットの購入方法

●「特定便割引」を狙う

各社は、販売を促進したい便に「特定便割引」を設定している。「早朝・深夜」など利用のしづらい時間帯、格安航空会社のフライトの近辺の時間帯、新幹線との競合路線などの割引率が高い。

最大六割弱の割引率だが、二割程度の割引率のフライトは簡単にみつかる。搭乗前日まで購入が可能なので便利だが、エアラインが設定した予定座席数が売り切れてしまっていると、期間内であっても購入できない。ただし、予約は変更できず、キャンセル料が高いので、手配は旅程が固まってからにしたい。

●目玉商品の大幅割引運賃を狙う

すでに有名になっているのが全日空の「超割」。購入と利用期間に大きな制約があるものの、国内全路線が一律一万円(最大割引率八一%)というのは大きな魅力である。

しかも、売れ残ったフライトが対象ではなく、発売日に新たな状態から予約できるのだからありかたい。当初は短期間だけのサービスで終了するとみられていたが、需要喚起の効果は抜群で、対象期間を拡大して継続が決まった。

その効果を見過ごせなくなった日航が二〇〇一年春から始めたのが「前売りスペシャル」だ。対象の搭乗日は五の付く日、購入は発売日から七日以内が条件で最大七四%、平均六七%引きの航空券を購入できる。

運賃はエリア別の均一料金で、たとえば大阪-九州の都市間は七〇〇〇円、東京-九州間は九〇〇〇円、東京-北海道間は一万円となる。さ
らに、二〇〇一年の会社創業五〇周年記念として五月の連休明けに全線五〇〇〇円均一の大目玉商品を用意した。五〇〇〇円均一運賃は、折りを見て今後も実施する予定とのことなので、見逃せない。

二社の動きに触発されたのがJASで、乗客の誕生日から一四日間は同伴者一名とともに全線一万円で何回でも利用できる「バースデー割得」を二〇〇一年五月から始める。購入には運転免許証やパスポートなど写真付きの証明書が必要。当面は一年間の期間限定だが、対象期間が二週間あるので乗客は都合をつけやすい。

需要の急激な伸びの期待できない中で国内航空の競争は激化するものと考えられており、このような目玉商品は今後増えると思われる。

●その他の割引を探す

航空会社では、これ以外にもいくつかの割引運賃メニューがあり、内容、条件、登録手続きは、各社の時刻表で説明されている。

誰でも利用できるものとしては「回数券」だが、スカイマークや北海道国際航空(エア・ドウ)では早朝、深夜の割安運賃を設定している。割引率は大きくないが、当日でも購入可能な点がメリットだ。新しい傾向の割引運賃としては、インターネットなどでの予約によるインターネット運賃(最大二九%引き。日航「e割」、JAS「ネットきっぶ」のみ。利用期間の限定あり)などもある。

また、事前登録の時間的余裕があれば、六五歳以上の乗客が平日に搭乗する「平日シルバー割引」(二四-三八%引き)、単身赴任者が帰省のために特定区間で利用できる「単身赴任割引」(二四上二八%引き)、二二歳未満の若者が空席利用を前提に搭乗できる「スカイメイト」(四三-五〇%引き)、介護のために特定区間で利用できる「介護帰省割引」(二五上二八%引き。JASグループのみ)なども利用できるので、該当するメニューがないかチェックしてみよう。

2015年1月21日水曜日

グローバル社会では貿易摩擦が起こるものである

また、世界の国民所得構造上、対外不足なり余剰(つまり輸入・輸出の差額の正負のことである)なりの比率が高くなってきつつあるのが戦後の特色である。これはIMFとGATTの両体制確立によって国際貿易が全世界に浸透し、各国とも自給自足経済からの脱却が自然に図れたからであるにちがいない。

とすれば、他国民のためにする生産・販売が当初から産業構造・生産販売活動の一環として、当該国の経済システムに組みこまれている予定の行動であって、販路をうしなった商品のはけ口拡大ではない。

もし、上記のように特定国または地域との貿易摩擦、すなわち一方的な輸出または輸入によって国際収支構造が著しく相手方に依存的になる傾向が進むとすれば、それはたとえば輸出の任にあたる商社や生産者の巧妙な技術やマーケティングを非難するにとどまらなくなってしまう。

つまり、その商品の輸出を行なう産業構造、輸出に依存せねばならぬ工業生産水準などがその特定商品を通じて相手国の産業構造や生産水準、そして自動的に相手国の国民所得構造との格差に直面することとなる。

すなわち、A国は貿易を通じてB国と経済のあらゆる局面で衝突することとなる。現代の生産社会は、一国の経済は産業の現況を反映する鏡だけではとどまらない。その国の社会構造や文化水準や人間の意識構造まで反映するようになっているの獣実際である。

2014年12月18日木曜日

ヒトラーによる「ユダヤ人狩り」

ロシア人の場合は、このヴィッチないしイチを父親の個人名にっけて、自分の個人名と姓とのあいだにはさむのが一般的だ。たとえば作曲家ピョートルーイリイチーチャイコフスキーの名は、チャイコフスキー家のイリヤの息子ピョートルをあらわす。ちなみに父は、イリヤ・ペトローヴィッチなので、チャイコフスキーの祖父の名はやはりピョートル(ペトロ)だったことが分かる。

ロシア人の姓は、ゴルバチョフのオフ、プーシキンのインなどでも見分けられる。ちなみに、インで連想されるレーニン、スターリンはどちらも変名で、本姓はそれぞれ、ウリヤーノフとジュガシヴィリという。スターリンは「鋼鉄の人」を意味するペンネームが通称となったものだ。先でとりあげたアルメニア人も、父系の姓をもっという点て、やはりゲルマン系やスラブ系の民族と変わらない。アルメニア人で「……の息子」を示すのは、イアンやヤッである。例として、日本でもロッキード事件という不名誉な話題で有名になったコーチャン、『剣の舞』の作曲家ハチャトゥリアンがあげられる。

ハチャトゥリアンは、アルメニア共和国国歌の作曲者でもある。二〇世紀を代表する指揮者カラヤンは、自身はオーストリア人であると主張し、また一般にはマケドニア系と思われているが、その姓はアルメニア人の末裔であることを物語っている。ビザンチン帝国下にマケドニアに移住し、商人として財を成したのち貴族にまでなったアルメニア人は少なくなく、カラヤン家の祖先も、おそらくその典型と考えられる(『新アルメニア史』佐藤信夫)。

アラブのイスラム教徒も、ロシア人のように父親の名前を個人名と姓のあいだにはさむが、アブー・バクル(正統カリフ)といえば「バクルの父」、ウンム~とあれば、「~の母」となる。民族独特の姓というのであれば、やはりユダヤ人に触れないわけにはいかない。いわゆるヒトラーによる「ユダヤ人狩り」では、姓による選別もおこなわれた。

スターンやスタインがつく姓が多く、バイオリニストのアイザックースターン、指揮者バーンスタイン(ユダヤ系ドイツ人)は有名である。とくにバーンスタインは、ウクライナ北西部のユダヤ人ゲットー(強制隔離施設)のあったバーンズティーンに由来するもので、差別、偏見が激しかった一時期、彼はアングロ風のレニー・アンバーという偽名を使っていた。

2014年11月18日火曜日

グローバルな活動下での司法戦略

日本人が司法サービスを外国に取られ、時に外国で叩きのめされる。そこで日本で裁判を起こしても、仇討ちを果たすどころか、被告に有利なシステムではなかなか勝てず返り討ちにあうというのでは、結局のところバランスを失するだけでしょう。

これからは、日本の事件は日本の裁判所で十分な満足が得られる形で解決できるようにしなければ、グローバルな活動の中で日本の利益を守ることさえもできません。今までも、日本の裁判制度と欧米のそれとの違いが、日米のビジネスの違いともなって現れていました。その一つの例が、知的財産権を重視したアメリカのビジネスのおり方です。

そこには、「どういう手続なら国民にとってメリットがあるか」という視点からの、国家としてのアメリカのCが垣間見られます。ビジネスモデル特許というのが話題にな。つています。特許とはそもそも、発明を保護するために与えられるもので、今までは、例えば新たに開発された化学薬品など、目に見える物体・物質であったわけです。

ところが、「ビジネスモデル」とか「ビジネス方法」というのは、別に化学物質でもなければ物体でもないけれども、そういうものを考え出した者は偉いから、その発明に報いてやる必要かおるという話になります。特許権は知的財産権の一種で、知的財産権には著作権なども含まれます。そこで、著作権侵害の問題だとイメージが持ちやすいと思いますので、著作権を例に話をすすめることにしました。

2014年10月17日金曜日

「古都税」の導入が検討

日本では地方税法により、各地方政府の課税自主権が認められていないが、法定外普通税という形でごく例外的に自主権を発揮することができる。しかしこれとて新設・変更にあたり自治大臣の許可制なので、地方政府が百パーセント勝手に振る舞えるというものではない。

京都や奈良のように、寺や神社など歴史的遺産があり年中観光客でにぎわう都市には、ゴミ処理、交通整理など様々な財政需要が発生する。このコストを応益説にもとづき、その地域以外からくる観光客に負担してもらうため、お寺などの拝観料、入場料に税金を課するのも一つの方法であろう。

一時期、京都で「古都税」の導入が検討されたが、寺社側の猛反対で陽の目をみなかった経緯がある。この系統に属するものとして、‐現在文化観光施設税が日光市と松島町で課されている。

同じように、別荘、ヨットなどは、ある地域にはしばしば迷惑を与え、その処理にコストを要することがある。その地域に居住しない所有者が、その地域のインフラを無料で使用するだけでなく、管理・維持に伴い地元の住民の負担を強いるのは筋違いともいえよう。

かかる視点から、熱海市が別荘等所有税をもっている。また一時期、三浦町でヨット・モーターボート税を課したことがあるが、徴税が十分に行えず挫折した経緯もある。いずれにしろ、これらは国税にない一味も二味もちがう税金で、地域の税負担と財政需要のあり方を考えさせてくれる。

2014年9月17日水曜日

武器になる資格とは何か

まず自分の本質的能力を見つめ直すことが重要だ。小手先の技術をいったん忘れて、これまでの仕事で自分にどのような能力が培われたのか、そして、そのなかでももっとも強力なものは何なのか、まずそれを知ることである。その本質的な能力こそ、先で述べた「勝ち組SE」の「価値」なのだから。

自己の本質的能力さえ知ることができれば、あとは履歴書や職務経歴書でいかにその能力をアピールするかである。遠慮することはない。持てる最大限の表現力を駆使して、自信のある能力は多少過度なほどのすごみでアピールしてほしい。そうすれば、きっと企業側の採用担当者の目にとまることだろう。

転職を成功させるにあたって、資格はないよりはあったほうがよいという以上のものではない。資格にもよるが、けっして資格が多いから有利になるとは限らない。それにはいくつか理由がある。

まず、資格を得るには勉強する時間と労力が必要である。一見したところ、資格を取得したということは、忙しい業務のあいだを縫って勉強し、休日も勉強に費やした結果であるとして、その熱意が評価されると思うかもしれない。しかし、逆の穿った見方もある。業務はおざなりで、勉強にばかり身を入れていたのではないか、と思われるかもしれないのである。

実際、このようなタイプのSEは存在する。キャリアアップのため資格取得を最優先し、仕事は二の次というタイプである。わたしの以前の職場にもこのタイプがいた。もちろん、寝る間も惜しんで勉強した結果、むずかしい資格を取得した尊敬すべき人もいる。これは本人の業務における実績との対比になるので、一概には言えないのだが、裏腹の見方があることも知っておいて損はない。

さらにIT関連の資格というものは、ある特定の製品や技術と結びついていることが多い。たとえば、マイクロソフトやオラクルの認定資格などがそうである。これらは、製品が主流であるうちはよいが、非主流に落ち込んだ場合、資格の価値も下がる。つまり、普遍的な価値はそれほど高くない資格なのである。普通自動車免許のように免許さえいったん取得してしまえば、どのようなメーカーであれ、排気量であれ、デザインやスタイルであれ、普通自動車なら違和感なく乗りこなせるような汎用的な資格ではないのだ。製品が変わってしまえば通用しなくなるタイプの資格なのだから、さほど大きな武器にはなりえないのである。