2016年3月17日木曜日

日記から読み取れること

それでも、素材となった本物の裁判では約三年かかった審理を一目に集中してやったのですから、陪審裁判にすれば、やはり裁判は短くなるわけです。その模擬裁判は参加した弁護士にとっても初めての試みであったことから、いろいろと考えなければならない技術的な問題点や教訓もありましたが、ただ、陪審制そのものが導入する価値の高い制度であることは再確認できました。

特に印象的だったのは、思考がパターン化されがちな法律実務家に比べて、陪審員は実に深く、かつ多面的に考えていたことでした。「陪審員は感情に流されるのではないか」「より巧みな弁論に引きずられるのではないか」といった危惧がないわけではありません。

また、欧米人のように本当に活発な議論ができるのかも心配でした。しかし、実際に試してみると、それは全くの杞憂でした。後になってふりかえってみると、その事件には、法律専門家の多くがパターン化した思考に陥りやすい問題点がありました。

具体的には「ある老人が病院の窓から落下して死亡した。これは自殺か事故か」という点が問題でした。証拠にはいろいろありましたが、その中に、死亡した老人が日記の中で「生きる意志」を書いていました。プロの思考パターンからしますと、この書証にかなり引っ張られ、自殺はあり得ないと簡単に結論を出してしまいがちです。

ところが、十二人の模擬陪審員はこの問題をかなり深くっっこんで考えて、日記の記載だけでなく法律家があまり考えないところまで幅広く目を配って、六対六に分かれて議論がまとまらないといった格好になりました。ここには、普通の日本の市民も決して付和雷同ではなく、多面的にしっかりと考えられることが示されています。