2013年12月25日水曜日

実業家としての手腕を発揮する

その一方で、実業家としての手腕も発揮し、国家専売の商品や石油、鉄鋼の輸入や貿易といった、国の特別許可がなければできないような業種を独占し、暴利を貪ったのである。そして、政府機関や軍の資金源とするための金儲けに邁進すると同時に、私財もたっぶりと蓄えたのである。そのため、中国では「政商」を「官僚ブローカー」と呼ぶこともある。太子党と官僚ブローカーは一時期、中国社会に蔓延し、社会現象にまでなった。そしてその存在は、国民の怒りと反発の対象でもあった。実は、八九年六月四日に、人民解放軍が市民に向けて発砲した、あの有名な「天安門事件」が起きた原因の一つには、こうした太子党や政商たちの無法ぶりに対する、市民の怒りがあったと考えられている。というのも、当時「天安門」に集った人々が掲げたスローガンのなかには、「腐敗反対」や「官僚ブローカーの打倒」という言葉が、多く見られたのである。

朝鮮を語るとき、これまで「商人」という言葉はあまり使われなかったような印象を受ける。しかし最近では、まさに経済改革がスタートした当時の中国に似て、「政商」、あるいは「官僚ブローカー」といった言葉が聞かれるようになり、実際にそうした勢力の台頭も見受けられるのだ。例えば、朝鮮では有名な全承前と全永助の兄弟はその代表的な存在である。この全兄弟は、全明洙元駐中国大使の息子で、兄の全承前は高校時代から朝鮮の友好国であるアフリカのタンザユアに留学し、帰国後には金日成総合大学で英語を教えた生粋の国際派として知られている。また弟の全永前は、中国の北京大学に留学した後、帰国して朝鮮労働党中央財政経理部に配属された超エリートである。二人ともいわゆる海亀である。

二人は海外で培った国際感覚と人脈を活かし、朝鮮に帰国後は外貨稼ぎの尖兵として働き、金正日から全幅の信頼を得て活躍の場を与えられた人物である。全承勣は今年五十三歳で、現在は大手貿易商社「富強会社」の社長を務めている。中国や東南アジア、ヨーロッパなどを一年中飛び回り、平壌の本社にいることは滅多にないと言われている。太った丸い体にイタリアの高級ブうンド、アルマーニのスーツを着こなし、腕には金無垢のロレックスと、大きなヒスイの指輪をつけている。そして口にはいつもキューバ産の高級葉巻をくわえ、人懐こくニコニコ笑っているのが特徴だという。まるで英国紳士の風貌だとさえいかれる。

北京ではいつも天安門広場にはど近い「北京貴賓楼飯店(グランドホテル)」かアメリカ大使館にも近いドイツ系の超豪華ホテルを定宿とし、中国の友人などを連れて頻繁にゴルフに出かけるという。彼の経営する富強会社は、「朝鮮永邦総会社」の海外事業部門で、軍のビジネスを統括する第二径済委員会にも所属している。富強会社は資本金約二千カドルで、中国やキューバ、ドイツ、スイス、マレーシア、エジプトなどに支店または事務所を構え、医薬品から鉱物資源、フープスナック製品、電子機械、保健食品まで実に幅広くビジネスを展開している。現在、会社の年商は一億五千カドルを上回るともいかれる。

彼の会社は兵器の売買ビジネスにも手を染めているとされるが、本人にその点を確認すると、きっぱりと否定した。また、雑談として、朝鮮の現在の経済改革と対外開放についても訊ねてみたが、彼は意外にも極めて慎重に言葉を選んで、深くは語ろうとしなかった。彼は、「市場経済は、朝鮮の目下の状況には最も適当な選択とはいえない。泰山は一夜にしてなるものではないのだから、朝鮮もまた現在の中央指導体制と配給経済を止めることはできない。そんなことをすれば多くの国民は生活に困り、生活できなくなってしまうだろう」と答えたのである。はたしてこれは、朝鮮国民のなかで最も市場経済の旨味を肌で感じているはずの、全の本音なのか。筆者には疑問が残ったのだが。

一方、弟の全永助はまだ四〇代半ばで、朝鮮労働党中央財政経理部に直属する企業の社長を務めている。この会社は、朝鮮の重油輸入のシェアを八割以上も独占している特殊な会社だ。全永助は北京大学を卒業したほどの中国通で、北京や深川、マカオにも別荘を持ち、一年の半分以上を中国で過ごすといわれている。この全兄弟のほかには、「官僚ブローカー」としてもう一人その名を知られた人物がいる。車哲馬もまた、新義州外国語大学を卒業した後、中国とパキスタンで大使館勤務の外交官を経験した国際派である。車は、朝鮮労働党の中枢機関である組織指導部の李容哲第一副部長の娘婿だといわれている。外交官時代にはその独特な人脈とビジネスの才能を生かし、外交官に課せられた外貨稼ぎのノルマは常にトップの成績で達成していたという。